日テレにはうんざりだ。
今日のはじめの一歩はひどかった。まあ、原作で読んだことあるから、
原作自体がまずいのだとは思うけど。
あの下品な絵とギャグには耐えられない。
最後のファイトだけ観ればよかった。
毎日何度も日テレで放映しているはじめの一歩やごくせんなどの番組宣伝によって
どれだけ僕の意識がコントロールされて被害を被っているか、よくわかった。
日テレは当分観るまい。

 国民社会主義によって虐殺された六百万人の人々、
 他人に対する憎悪と反ユダヤ主義の犠牲になった
 信仰と国籍を問わない数限りないすべての人々、
 その犠牲者の中でももっとも近しい者たちの思い出に



冒頭に引用した文章は
エマニュエル・レヴィナスの主著の一つとされる『存在するとは別の仕方で』の
エピグラフとして掲げられている文章である。
レヴィナスユダヤ系のリトアニア出身の思想家で、
激動の20世紀のほぼ全時間を生き抜いた。
以前から合田正人氏の翻訳(講談社学術文庫から出版)には多くの疑問を感じていたので、
今回僕のおぼつかないフランス語力で原文から直接翻訳してみた。
識者の指摘を待ちたい。
合田氏の翻訳では文意が相当あやふやでミスリーディングだと思われる。
原著では冒頭のエピグラフだけヘブライ語とフランス語が同じページに併記されているのだが、
フランス語の文を読んだかぎりでは僕の翻訳のほうが原著者の意図に近いと思われる。
ただし、この文章はフランス語特有の考え方に基づいているように思われるので、
日本語に訳すことの無意味さと無力さを感じないわけにはいかない。
表題も、「存在するとは別の仕方で」(Autrement qu'etre)という美しい表題を
わざわざ「存在の彼方へ」(au-dela de l'essence)と通俗的な感じにする必要を感じない。
原表題は Autrement qu'etre ou au-dela de l'essence である。


なぜこの文章を引用したかというと、
異質な他人への憎悪、多元的な階級格差からくる嫉妬と憎悪といったものを最近よく感じるからだ。
そうしたことを感じたとき、僕はよく冒頭の言葉を思い出す。
他人に対する憎悪から被害を受けてきた人間の、とても美しい詩だと思われるからだ。
一方では、異質な人間たちを「他人に対する憎悪」の被害者として
すべてひとまとめにする論理にはやや違和感を覚えないでもないのだが、
それは今度考えていきたいと思っている。
このところ、人間が他者の自由、内面の自由を侵犯していくことに非常な不快感を感じるようになってきた。
昔読んだ丸山真男の「超国家主義の論理と心理」のなかのうろおぼえの言葉、
天皇制が国民一人一人の内面にまではいりこんでくる過程」もまた
僕のなかによみがえってくる言葉のひとつだ。


僕は数年前から高田馬場に通っているのだが、
夜帰るときになると早稲田の学生たちが大声で叫んでいる。
馬場は道が狭く汚いので、たがいにゆずりあって歩くべきなのだが、
通らなければ駅に行けない道路で何十人もかたまってたむろしている。
信じられないモラルの低さだ。偏差値を上げる勉強だけではなく、
他者を侵害しないモラルを教育すべきだといつも思う。


僕はインドアタイプの人間なので、アウトドアタイプの異質な人間たちに対して
子供の頃から多くの憎悪と嫉妬を感じ、彼らから被害と苦痛を受けてきた。
その長い経験から、現在では「異質な他人同士がお互いの自由・領域を侵犯しない社会」が
もっとも望ましい社会だと思っている。
冒頭に掲げたレヴィナスの言葉を尊重するのも、70歳ごろに発表した総決算のような著作の冒頭の文章だからで、
それまでの人生での苦闘の経験が簡潔な文章のなかで見事に表現されていると思うからだ。
レヴィナスは第二次大戦のときにナチスによってユダヤ人だった親類や
子供の頃から親しかった身近な人々、パン屋の職人のような人々も含めて、
多くの知己友人たちを虐殺された。
冒頭の「もっとも近しい者たち」とは彼らのことだ。
彼自身もナチスの捕虜となり屈辱をなめた。
そうしたブルータルな現実の経験から生まれた思索には書斎で考えられた思想とは違う迫力がある。
どうしようもなく醜い憎悪や嫉妬、欲望や暴力を目にし、現実に対する理論の無力さを痛感し絶望しながらも考え抜かれ鍛え上げられた思想だ。
残念ながら僕はいまだ彼の著作を読むような段階には達していない。
いまは、これからの人生が僕に多くの経験と思索を与えてくれることを祈るだけだ。


先の話題に戻る。
「異質な他人同士がお互いの自由・領域を侵犯しない社会」と僕は書いた。
たぶん、そうした考えはリベラリズムの立場に近いのだと思う。
自由主義と民主主義の対立とリベラリズムがどのように関係してくるか、
非常に興味深いところだが、僕にはまだ解答が与えられていない。
ただひとつ言えることは、民主主義が異質な人間(外国人や難民など)を排除することによって
存続するシステムである以上、僕は民主主義には反対せざるをえないということだ。
異質な他者を排除するのではなく、異質な人間同士が憎みあわず、
互いに侵犯しないで共存できるシステムを目指すべきだというのが僕の立場だからだ。
それはグローバリゼーションの問題へと僕を導く。
この問題についてはまた徐々に書いていきたいと思う。


フランスの少年詩人ランボーの詩『地獄の季節』のなかに、
「おれはすべての存在が幸福の宿命を持っているのを見た」
(je vis que tous les etres ont une fatalite de bonheur.)
という言葉がある。
僕は昔からこの言葉がとても好きだ。
すべての存在が、その固有の幸福を生きること、
それが僕の望む社会だ。

今週の月曜日に日テレで放映していたので観た『名探偵コナン』の映画はまったくつまらなかったけど、
子供の時に軽く読んで以来まったく読んでいなかったシャーロック・ホームズへの興味を
引き起こしてくれたという点でよいプログラムだった。
最後のほうで登場するシャーロック・ホームズは失笑ものの幼稚さだったけど、
『緋色の研究』のなかの名セリフを僕が初めて知るきっかけになった。
"There's the scarlet thread of murder running through the colourless skein of life,
and our duty is to unravel it, and isolate it, and expose every inch of it."
「人生という無色の糸のもつれの中には殺人という緋色の糸が走っている。
 僕たちの任務はそれを解きほぐし、分離して、一インチも残さずそれを暴きだすことなんだ。」
とでも訳すのだろうか。
「緋色の研究」というタイトルも無論この言葉に由来している。



僕の本棚に子供の時からある鮎川信夫訳の『シャーロック・ホームズ大全』(講談社)は
一代の詩人による翻訳だけあってさすがに格調が高いのだけど、
やや古くて大仰すぎるようなところもあるので
原文を調べて自分なりに訳してみる楽しみがある。



余談だが、自分の本棚にある本が鮎川信夫という有名な詩人による翻訳だったということについ一年ぐらい前に気づいた。
鮎川は推理小説が好きらしい。
創元推理文庫から出版されているエラリー・クイーンの「悲劇」シリーズも彼が訳していたはずだ。
大学にはいった年に「繋船ホテルでの一夜」(だっただろうか)を吉本隆明の初期批評で知り、
鮎川の他の詩はまったく読んでないが「ホテル」の詩だけは何度も愛唱していたので、彼にはある種の思い入れがある。
吉本の詩も初期のだけは美しい緊張感と世界に対するみずみずしい違和感があり、
僕が少年とは言えない年になり、夢見る頃を過ぎてからも
たまに読み返すと異様な共感ができて不思議な時間をすごすことがあった。



『コナン』でのもう一つの収穫は、主人公・工藤新一が好きだというセリフだった。
'If I were assured of the former eventuality I would,
in the interests of the public, cheerfully accept the latter.'
原文ではこのまえに宿敵モリアーティ教授のセリフがあって
それを踏まえないとこのセリフは意味が通じないのだが、
そのセリフはやや長くなるので割愛して日本語に訳すと、
「もしあなたを確実に破滅させることができるなら、
 僕は公共の利益のために自分の破滅を喜んでうけいれるつもりですよ」
となる。
ここでの「あなた」とは無論モリアーティ教授のことだ。
これが映画のなかでのキーワードとなっているのだが、それ自体はさほど面白くなかった。
が、このセリフ自体は強い喚起力を持っているようで、さっそく僕の暗誦課題語録のなかにインプットされてしまった。



これ以外にもシャーロック・ホームズのなかには面白いセリフが多くある。
ひさしぶりに古典的ミステリーを読みたい欲望が沸いてきたようだ。

http://etext.library.adelaide.edu.au/h/holmes/

[Antipathy]
さっき日テレのはじめの一歩を見ようとしたら、野球で1時間繰り下げということ。
野球はほんと迷惑だ。毎回十分な時間枠とってるんだからちゃんと守れよ。
時間延長する番組なんて特別ニュースを除けば野球ぐらいのもんだろう。
後の番組はどうなってもいいと思ってるんだろうか。
野球のハイライトをニュースで見るのは毎日わりと楽しみにしてるけど、
最低限の節度は守ってほしいもんだね。
「美人でちやほやされているのに驕ってわがまま放題の女」を思い浮かべてしまった。
調子乗ってると痛い目みるぞw
とりあえず日テレに対する僕の評価はかなり下がりました。
ごくせんスペシャルもあれだけ期待させてひどい出来だったしさ。
はじめの一歩スペシャルはちゃんと作ってくださいよ、日テレさん。

今日はひさしぶりにやたらと文学づいてしまった。
未明にゲーテの『対話』を10ヶ月ぶりぐらいに読み感動したのをはじめとして、
今日はほんとうにひさしぶりにネット上のE-TEXTを漁ってしまった。
普段はシェイクスピアと聖書のNRSVしかE-TEXTを利用しないんですけど、
たまに昔とった杵柄でむくむくと文学に対する欲望が溢れてきてしまうのかな。(T-T*)フフ
Joyce,Kafka,Rimbaud,Goethe,Shakespeare,Racine,Mallarme....
文学で読みたいのはいっぱいあるけど、文学を愛好していると社会の動きから
外れてしまうという危惧が僕の欲望を押しとどめる。
昨日の夜も眠れなくてそこはかとなく考えたのだけど、
「文学」対「社会」というのは「自意識」対「社会=政治=集団」という図式に変換可能で、
小林秀雄が考えた問題設定そのままなのですね。
だから、僕の中ではいつも(初期から中期の)小林の強烈な個性と、
なんとか自分を社会化してうまくやってやろうという自分の現実的な計算との相克が演じられているのです。
社会現象すべてを自意識に還元してしまうかのような小林の強力な魔術的文章は
僕にとってはいまだに抗いがたい魅力を持っている。
さっき軽く読んだカミュの『シーシュポスの神話』などもそうだ。
自意識と社会という相反する二つの引力、
それはどちらかをなくすべきものなのか、それとも僕の中で共存できる二つの要素なのか。
僕の眼前にあらためて「文学=自意識」の問題が浮上してきたようだ。

ふー。こっちもため息。いま外から帰ってきたのですが、昨日の人のせいで
街を歩いている間もくだらないことを何分も考えさせられてしまったことよ。
僕が「はてなダイアリー」の規則を読んでないのは事実だけど、
他人を不快にさせる文章を読んだ時にそれに批判を加えてはいけないなどと書いてあるのだろうか。
はてなダイアリー」は言論の聖域(笑)なのだろうか。
一度口から出た言葉はどんな人間から発せられたどんな言葉でも他人に害を与える可能性がある。
そうである以上、どんな発言に対しても批判を加える自由がある。
以上が昨日僕が書けなかった「理由」になるだろうか。
「ネタにマジレス」云々といったことを冗談以外で書く人がいるとは驚いたが、
自分に都合の悪いことはすべて「冗談」「ネタ」にして、
自分に批判が加えられると「つまらないこと言うな」という人なのだろう。
僕には関係のない所で生きてくれることを望むだけです。
まあ「つまらない」話はこれぐらいにしますね。
これも「ネタにマジレス 恥ずかしいやつ」ってなっちゃうんでしょうからね。
この件に関して意見のあるかたは僕に直接メールしてください。
ウィルス対策として、「はてな日記を読んで」等の件名にしてくれるとありがたいです。

ryo1789@hotmail.com